夏の読書2020

f:id:hinoikelife:20200812203548j:plain

近代日本を最もよく識る二人司馬遼太郎ドナルド・キーンの対談集『世界の中の日本 十六世紀まで遡って見る』(中央公論社、1992年刊)を読んだ。最近ついに1軒のみとなった最寄駅近くの書店で、ディスプレイとして置かれていた本書をお借りした。残念ながら、本書の意味するところはおそらく半分も分かっていない。博学のお二人が阿吽の呼吸で交わす内容は、時空を越えて、”鎖国の功罪”に始まり、”日本人の近世観”や”(江戸時代の)大衆芸術”を掘り下げ、”日本語と文章”を考察する。そしてついには”日本人と「絶対」の概念”に話が及ぶと、理解を遥かに超えた二人の見識が飛び交う。それでも食い下がって読み通した。特に印象に残ったのは、最後の方で井上靖の話として出た、「日本人も(あるいは日本の国も)そろそろ世界の組合員にならなければいけませんね」という言葉である。
周囲を海に囲まれ、古代においては自然が日本と外国との交流を阻んできた。奈良・平安朝以降は自然に抗いながらも外国との交流が僅かながらも続いていた。それが朝鮮出兵で懲りたかのように、江戸時代において突如鎖国が行なわれた。国を閉ざすというのは、日本のような島国以外では至難である。現代においても北朝鮮から韓国へ逃れる人が絶えず、南米から何百万人という人がアメリカを目指してくるのを阻むことができていないことからも容易に想像される。その間に日本人は根底から自分たちの住む世界には日本人しかいないということに慣れきってしまったのだろう。幾多の諸外国との武力戦争や経済戦争を経験してきても、なお自国のコロナ感染者数増減に一喜一憂している自分がいる。のべ10年間以上、4カ国で生活してきたにも関わらずである。巻末の『積極的にこのことを考える方がいいですね。世界を受け入れたり、世界に出て行ったりすることは、日本人や日本文化が減るということではなく、肉質が締まって、水泳選手の体のようないい形のものになるということですから。』という言葉が重い。

f:id:hinoikelife:20200812203934j:plain